吉祥寺ハモニカ横丁の歴史 ヤミ市横丁研究所






Last updated 2017-03-29






ホントよくまぁ、天下の吉祥寺駅のド真ん前に、こんな商店街が今も生き残ってるもんだ。
横丁ヘビーユーザーの自分はすっかり見慣れちゃったけど、
吉祥寺駅前のこの光景は、ちょっと不思議で異様な光景なのかもしれない・・・。


ハモニカ横丁みたいな、戦後のヤミ市を起源とする商店街だったり飲み屋街は、
減少しつつも、実は都内には結構残っている。
でも、普通は、新宿ゴールデン街のように移転されて駅から遠いところだったり、
渋谷のんべい横丁のように線路の脇とかに整理されちゃったいるケースがほとんど。
こういう横丁は街の隅っこに追いやられちゃってる。
にも関わらず、駅のド真ん前に3000㎡もの面積を占めているハモニカ横丁は、立地を考えるとかなり特殊。


でも、今となっては、駅前にハモニカ横丁があることに違和感を感じる人なんて、いなくなっちゃったんだよね。
だってハモニカ横丁は、今や吉祥寺のランドマーク的存在になったのだから。


横丁には新聞、雑誌、テレビの取材が頻繁に来ているようだ。
ランチの時間帯には行列をつくるお店があちこちに出来るようになった。新しいお客さんがどんどん増えている!
昔はよく見かけた横丁ヘビーユーザーは、今では新しい客に居場所を奪われちゃったみたいで、最近全然見かけない。
変わりゆくハモニカ横丁!



・・・結局何を言いたいのやら話はそれましたが、
ハモニカ横丁の歴史です!
どうぞ!






152814089h92AC82CC83o838983b83N8FA493X8AX288FBA98a2094N91E329.jpg(名古屋市所蔵)
戦前は、関東大震災で家を失った人たちの移住先として発展した吉祥寺。
そのころから吉祥寺駅周辺には商店街が形成されていて、
建物も多く建っていたのですが、戦時中になると更地になってしまいした。
なぜかというと、1番大きな理由としては、商店がが爆撃されたときの出火が
鉄道への延焼がないように、駅周辺の建物をすべて取り払う必要があったようです。
それだけ、戦時中鉄道はとても重要なインフラでした。

ハモニカ横丁の一帯でも、建物の基礎を残したものの、
やはり建物すべて取り払われました。
いざ戦争が始まってみると、駅周辺は爆撃されなくて、
駅前にはきれいな更地が残りました。
写真は名古屋市栄のヤミ市だが、少しスケールは小さくなるものの、
これに似た長屋風のヤミ市が吉祥寺駅前にも広がりました。




戦時中から深刻な食糧不足に陥っていました。当時の政府は、お米をはじめとした貴重な食料は、
「統制品」として、自由な売買を禁じて、配給によって政府から与えられた分しか食べてはいけないことになっていました。
でも、その与えられる量というのが、信じられないほど少なく、成人が1日に必要なカロリーのうち3分の1程度。
そのため、国の言うこと聞いていると確実に栄養失調になるので、生き延びるには配給とは別ルートで食糧を確保する必要がありました。
実際、政府の言う通りにそれだけを食べて生活をしていた、国に忠誠心の強すぎる公務員は栄養失調で死んでしまいました。



そこで、人々の救世主となったのが、戦後の「ヤミ市」です。
主にテキヤが食糧の豊富な地方都市から独自のルートで食糧を調達し、東京をはじめとした食糧の乏しい都会へ運び、
主要駅の駅前で、それらを売ったのです。このヤミ市がなければ、多くの死者を出していたことは想像に難くありません。

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ヤミ市時代からの吉祥寺を知る、吉祥寺駅前商店街連合会(ハモニカ横丁)の水野秀吉会長は、
当時のヤミ市について、「生命の原点」とおっしゃいます。
決して「ヤミ」というような悪いイメージを抱かせるような言葉で表現されるべき場所ではなく、
当時の人々が生きる上で必要不可欠であったそうです。

吉祥寺駅は、中央線と井の頭線という2つの鉄道網を有していたこともあり、
人と物がたくさん集まり、大きなヤミ市が形成されました。
少し話を戻すと、吉祥寺駅前は建物疎開によって、駅前がきれいな更地になっていたので、
店を並べて商売するには格好の場所ということもありました。



吉祥寺のヤミ市には、米軍の横流し品を売る店や、本来売買を禁止されている米などの統制品を売る店が並びました。
規模としては、新宿や池袋には遠く及びませんが、中野よりはずっと吉祥寺のヤミ市の方が賑わっており、
ここに来ればなんでも揃うというほどのヤミ市でした。






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吉祥寺のヤミ市は、やはり現在のハモニカ横丁の一帯のみならず、
今の駅前広場の方にも広がっていた。
だから、どこもかしこも「ハモニカ横丁」だったわけです。
ところが、街全体が近代化される中で、
駅前広場のためにヤミ市起源の商店街が整理されるなどして、
ヤミ市が“トリミング”されることにより、
現在のハモニカ横丁という街区に整形されました。

終戦直後のハモニカ横丁は、今以上に幅の狭い店が
立ち並んでいました。今では敷地の統合を繰り返した
店舗が多いため、それなりに広い店舗も多くなりました。
写真は、終戦直後から敷地の統合がないお店です。
こういった狭いお店は飲み屋であるケースがほとんどです。









ここまでは主にハモニカ横丁の“ハード”に注目して形成過程を追ってきました。
しかし、ハモニカ横丁の内部組織などに注目すると、
横丁全体が同じ流れで戦後から現在に至るわけではありません。
と言いますのも、ハモニカ横丁には5つの通りがありますが、
その全てに商店街組織があり、各々に独特な歴史的な特徴があります。
この話は、少し込み入った話になりますので、
小冊子「吉祥寺ハモニカ横丁の記憶」をご参照いただけますと幸いです。