吉祥寺駅前商店街連合会 水野秀吉会長
テレビ、雑誌でハモニカ横丁が取り上げられると、
会長もセットになって取り上げられますね。
ハモニカ横丁の代名詞、水野秀吉(ひできち)会長です。
横丁では「会長」の愛称で親しまれてます。
普段はよく横丁の中を掃き掃除されているので、横丁をよく訪れる方でしたら、
見かけたことがある方も多くいらっしゃるのではないかと思います。
水野会長は、昭和7年、中野生まれ。
戦時中は今でいう中学生だったので、戦地へ行くことはなかった。
その代り、学徒動員により、西武池袋線の車両整備をされていたそう。
会長のお兄さんはやはり学徒動員により、軍需工場で働いていました。
時代が時代だけに、子供もお国のために借り出されていたんですね。
会長は西武池袋線の駅に通っていたこともあり、午後3時が近づくと堤家へ行き、
おやつをもらいにいっていたそうな・・・ すごい。
戦後、ヤミ市が最初に出来たのは新宿でした。
新宿ヤミ市はいくつかのテキヤによって統制されていたわけですが、
その中でもいち早くヤミ市を開いたのが尾津喜之助親分。
水野会長のオヤジさんは建築の職人さんとして新宿で働く機会があったせいか、
新宿にいるうちに尾津親分ととても親しかった。
博打仲間から始まった縁だったけれど、そのうち尾津親分のヤミ市でも働くことに。
戦争をきっかけに会長のオヤジさんは失業したこともあったので、
新宿のヤミ市で生計を立てるようになったわけです。
※尾津喜之助親分に関しては、尾津豊子(娘さん)著「光りは新宿より」をご覧ください。
ただ、会長のオヤジさんは交友関係が広く忙しかったこともあり、
まだ幼い会長が代わりに新宿のヤミ市で働くことに。
ヤミ市には勇ましい復員兵たちもたくさんいました。
お客はこう思うわけです、「幼い子供が、大人たちに混じって頑張ってる」と。
客は幼い会長に同情してか、会長の店は大繁盛!!
そんなこんなしているうちに、売り子から、ヤミ市を管理する立場になった。
ヤミ市で悪いことをしている人を見ると、テキヤの兄貴分に報告する役目でした。
これは尾津親分と深い付き合いをしていたオヤジさんが信頼されていたことが大きいのでしょう。
ただ、人の悪事を報告する役目だっただけに、何かと辛いこともありました。
やむなく新宿のヤミ市を離れることになります。
その時、新天地に選んだのが吉祥寺でした。
吉祥寺のヤミ市は、新宿や池袋と比べたらずっと規模は小さいわけですが、
中野よりは大きかったそうで、吉祥寺のヤミ市に来れば何でもあるというほどに、
大きな存在感があったようです。
尾津豊子著「光りは新宿より」
新天地、吉祥寺のヤミ市ではとても良い待遇で商売が出来ました。
これは新宿にいたころから、当時東京都露店商同業組合の会長だった尾津親分との
繋がりがあったからでした。
会長が吉祥寺に移って間もなく、
オヤジさんも会長を追いかけて吉祥寺で商売をするようになります。
テキヤによる統制が終わり、ヤミ市ではなくなると、店名を「水野青果」として親子で八百屋の経営を始めます。
一方、ハモニカ横丁の一帯は「吉祥寺駅前商店街連合会」という組織になります。
戦後から60年続くこの商店街組織の7代目の会長にあたるのが、水野会長です。
戦時中から吉祥寺駅前の露店にいる会長は、
戦後からの吉祥寺の街全体の変化を肌で感じてきただけに、
ハモニカ横丁だけでなく街全体に精通しています。
今では八百屋さんはされていませんが、
かつては吉祥寺の1等地で威勢よく商売をされていただけに、
吉祥寺歴の長い方であれば水野会長のことを知っていておかしくない。
サンロードを歩いていて会長とバッタリ出くわして少し立ち話をして別れると、
通りすがる人に、「あの方って、昔八百屋さんだったでしょ?」
なんて見ず知らずの人に話しかけられることもありました。
とっくに八百屋を閉めているのに、今でも吉祥寺の人達の記憶に刻まれている水野会長。
かつての八百屋は雑誌でとりあげられることも
ここではなかなか書けませんでしたが、
会長の歩んできた道は険しすぎます・・・。
恵まれた現代を生きる私には、
会長が歩んできた道は想像を絶するものだろうと確信しています。
話を聞いていると、自分ならここで死んでるだろうなと思う瞬間がいくつもあるわけです。
激しい戦後ヤミ市を必死に生きてきた、「Mr.ハモニカ横丁」。
これからもお元気で・・・!
ちょっと話を飛ばし飛ばし、お伝えしてまいりましたが、この続きはまたどこかで・・・